PRESS PEOPLE 

新聞社の中の人のブログです。報道の仕事をして30年。誤解されていることの多い業界のリアルを更新していきます。

友人の訃報記事を書く

 新聞記者を長く続けていると、取材をきっかけに親しくなった著名人の訃報に接することがある。その人とのやりとりがつい昨日のことのように思い出され、辛く悲しくなる。一方で、故人をよく知っているからこそ直ちに社会面用の訃報記事を書かなければならないし、その記者しか知り得ないエピソードを盛り込んだ追悼記事を書く義務もあると思っている。


 新聞社は各界の著名人が亡くなると、訃報を掲載する。もちろん、亡くなった事実を早くキャッチすれば独自ダネで出稿することにもなるし、社内でも評価される。早く情報をつかむということは、その記者がそれだけ故人と親しく接してきた実績なのである。


 訃報記事というのは、故人の業績の価値・評価によって紙面での扱いが異なってくる。亡くなって間もない人を勝手に評価するというのは失礼極まりないのだけれども、「国民皆が知っている」「歴史を動かした」「国際的にも有名」などの基準で判断するわけである。


 そして、新聞社は著名人の訃報のための準備も怠らない。急死ならば仕方ないが、高齢や闘病中などの場合は「要警戒」ということで、担当記者が予定稿の準備に入る。不謹慎だが、訃報予定稿のリストも作っている。社によって違うと思うが、それは政治部、経済部、文化部、運動部、外信部など各出稿部ごとにまとめ、編集長が管理する。


 いざというときには、その扱いを当日の紙面編集長が決めるのだが、概ね前述の基準に基づき、1面掲載とか社会面見開きなどの判断を下す。もちろん、編集長が政治部出身なら政治家に手厚くなるだろうし、文化部出身であれば芸能人などに比重がかかるかもしれない。最近は各新聞社ともニュースサイトを持っており、編集の自由度も高まっている。


 私自身もつい最近、親しくしていた著名人の訃報を書いた。数カ月前に体調を崩したと聞き、心配していた。その一方で「予定稿」の準備も始めていた。気持ちのいいものではない。言ってみれば、親しい友人について「●日、死去した」と書くわけだから。それでも自分にしか書けない、自分だからこそ書ける記事でもある。思いを振り絞って追悼記事を書いた。


 もう二度と話せないのだが、その追悼記事を執筆している途中、2人で会話しているような不思議な感覚がしていた。後日、記事を読んだ複数の関係者から御礼の連絡があった。新聞記者は因果な商売だが、自分の記事で「送る」ことがささやかな弔いになるのだと、自分に言い聞かせたりもする。